二ノ瀬という集落

鞍馬川沿いの二ノ瀬は、山と川のあいだの小さな集落です。鞍馬工房の主宰・今江康弘は、ここに生まれ、いまもここに拠点があります。

二ノ瀬を流れる鞍馬川
二ノ瀬を流れる鞍馬川

落ち延びた家

私の家には、紀名虎を祖とする系譜が伝わっています。紀名虎は惟喬親王の母・紀静子の家系にあたり、藤原氏との争いに敗れて都を離れました。惟喬親王は家来に守られて二ノ瀬に落ち延びたと伝えられ、峠であまりの暗さに泣かれたという「夜泣き峠」の名が残っています。私は、その四十四代目に当たります。

二ノ瀬駅の脇に立つ鳥居
二ノ瀬駅の脇に立つ鳥居

「今、江戸に着いた」

江戸時代、二ノ瀬は儒者・林羅山を祖とする林家の知行地でした。林家に仕えて江戸へ赴いた者たちが、「今、江戸に着いたのだから今江と名乗れ」と言われて改名した。今江の名は、そこから始まったと家では伝えています。

今江家の家系図。原本は京都市に寄贈
今江家の家系図。原本は京都市に寄贈

庄屋と奉先堂

延宝二年(一六七四年)、庄屋の今江清長の尽力により、林家の家廟である奉先堂が建てられました。羅山の遺品や著作が納められ、林家歴代の命日には供物が供えられたと記録されています。建物は明治維新後に失われ、跡地には漢文の石碑が残っています。

京都市歴史資料館の史料解説には「今江家文書」が紹介されています。永正六年から明治七年に及ぶ文書群で、今江家を二ノ瀬村の郷士とし、惟喬親王の家臣の末裔と伝えると記しています。二〇二四年、これらの文書は京都市に寄贈されました。

奉先堂跡の石碑。鹿が入らないよう柵で囲っている
奉先堂跡の石碑。鹿が入らないよう柵で囲っている

この土地の産物で

二ノ瀬は急峻な山に囲まれ、田はほとんどありません。炭や薪、山椒。家々は、この土地で採れるもので暮らしを立ててきました。私の家は林家の差配をしていました。

山椒の木
山椒の木

木地師の祖と、二ノ瀬

惟喬親王は、祖父の紀名虎が藤原氏との政争に負け、命を狙われ紀氏の勢力範囲である二ノ瀬に落ち延びました。以来全国の木地師からロクロの祖として仰がれてきました。ロクロの祖としては滋賀県東近江の君が畑が有名です。

二ノ瀬で惟喬親王は百人程の家臣に護られて生活していたと伝えられています。鞍馬工房で行う箸づくりの体験や木布(もくふ)は、正にこの土地の木の話の、続きです。

そして、工房へ

その四十四代目が、鞍馬の素材でものをつくる工房を開きます。

鞍馬工房とは →

守谷神社と富士神社

二ノ瀬には、惟喬親王を祭神とする守谷神社と、母の紀静子を祭神とする富士神社があります。昭和三十六年の第二室戸台風で守谷神社の神殿が崩れ、昭和三十八年に富士神社へ遷宮したと、調査資料に記録があります。

2018年の風台風で崩れかけた守谷・富士神社の石垣
2018年の風台風で崩れかけた守谷・富士神社の石垣

この先やりたいこと

2018年に京都を襲った風台風で鞍馬地域の山林の木が薙ぎ倒されて甚大な被害を受けました。写真にはその爪痕が残っています。

今江家に伝わる話では、林羅山は生涯をかけて集めた資料を火事で失ったのち、資料を三つの方法で分散して守ろうとしました。禄高二千石の林家が、知行三十石の二ノ瀬へ江戸から文献を退避させたことも、その一つです。大切な記録を離れた場所にも残す発想は、現代のデータバックアップにも通じます。この歴史が、シリコンバレーをはじめITに携わる方々にも届けばと思っています。

奉先堂の跡地を、いつか整えたいと考えています。羅山が開いた私塾は、のちの学問の礎になりました。学びの場所として、もう一度この土地に灯したい。時期も形も、まだ決まっていません。決まりましたら、このサイトでお知らせします。(文責・今江康弘)